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本願名号のリレー [「『正信偈』ふたたび」その79]

(10)本願名号のリレー

往相と還相の間に時間的な前後があるわけではなく、往相がそのままで還相であると言いましたが、としますと、信がひらけたそのときに往相がはじまり、それがまた還相のはじまりでもあるということになります。

信がひらけたそのとき(親鸞のことばでは「信楽開発の時剋の極促」)、「ほとけのいのち」に摂取されている自分に目覚め、それが往生することに他なりませんが、それで時間がストップするわけではありません。そこから新しい時間がはじまり、それが正定聚不退としての生のはじまりであり、そしてそれがまた還相のはじまりです。信心の人とは本願の人であり(本願と信心はひとつです)、本願をわが願いとして生きる人ですから、「若不生者不取正覚(もし生れずは、正覚を取らじ)」という教化利他の思いを持って生きることになります。

ここで想い起こしておきたいのが、本願の信は本願によりおこりますが、しかし本願が直接われらに信をおこすことはなく(本願は天空から降ってくるわけではなく)、名号という「こえ」とならなければならないということです。その「こえ」が届いてはじめて信がひらけます。そして「こえ」とならなければならないということは、その「こえ」を発する誰かが必要であるということであり、その誰かというのが「よきひと」に他なりません。『歎異抄』第2章に「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」とあるあの「よきひと」です。

信がひらけたときに往相がはじまり、それがまた還相のはじまりであると言いましたが、この還相のはたらきとは、有縁の人に「ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」という「こえ」(これが名号の「こえ」です)を届けることです。その「こえ」が誰かの心に届きましたら、そのときその人に信がひらけ、届けた人はその人にとっての「よきひと」となるのです。このようにして、誰かから名号の「こえ」を届けられ、そしてまた別の誰かに名号の「こえ」を届けるという形で本願名号は次々とリレーされていくことになります。

(第8回 完)


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