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線としての往生 [はじめての『高僧和讃』(その235)]

(14)線としての往生

 114首と117首に「浄土にかへりたまひにき」「浄土に還帰せしめけり」という表現が出てきます。法然上人は自分の故郷である「ほとけたちの浄土」へと帰っていかれたということです。ここでもまた、浄土へ往くこと(還ること)が往生だから、往生はいのち終わるとき(臨終往生)ではないかという疑問が生まれるかもしれません。とすると、信心のときが往生のとき(即得往生)ということはどうなるのか、と。往生ということばにつきまとう曖昧さがここでも顔を出していると言わなければなりません。
 ぼくらは往生を「点」としてイメージする癖がついています。そこから、その点が臨終の時か、それとも信心の時かという対立が生まれてきます。もう一度あの文言、「信心のさだまるとき往生またさだまるなり」を取り上げますと、これは「信心をえたとき直ちに往生する」とも「信心のとき往生の約束をえる(実際の往生は臨終時)」とも解釈でき、そこから即得往生説と臨終往生説の対立が生まれてくるのです。いずれも往生を点ととらえていて、それがいつであるかを巡って争っています。
 さて往生を「点」ではなく「線」ととらえてみることはできないでしょうか。「信心のさだまるとき往生またさだまる」を「信心のはじまるとき往生またはじまる」と言い換えるのです。信心は本願名号に遇うことができたときおこりますが、それで終わりではなく、それからずっとつづくでしょう。同じように、往生は信心をえたときにはじまりますが、それからずっとつづくプロセスと考えるのです。往生とは瞬間的な出来事ではなく持続的な生活であると。
 正定聚ということばを持ち出しますと、親鸞にとって信心のおこるときが正定聚(必ず仏となることができる仲間)となるときです。これを現生正定聚といい、ここに親鸞浄土教の眼目があることには誰しも異論がないでしょう。そして正定聚であることは瞬間的なことではありません。正定聚となった以上、それからずっと正定聚としての生活がつづくのです(不退というのはそういうことです)。この正定聚としての生活こそ線としての往生ではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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