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弘誓のちからをかぶらずは [親鸞の和讃に親しむ(その71)]

第8回 高僧和讃(4)

(1)弘誓のちからをかぶらずは(善導讃のつづき)

弘誓のちからをかぶらずは いづれのときにか娑婆をいでん 仏恩ふかくおもひつつ つねに弥陀を念ずべし(第86首)

本願力によらずして、いずれのときに娑婆を出る。仏の御恩わすれずに、南無阿弥陀仏となうべし。

「いづれのときにか娑婆をいでん」の一句が印象的です。娑婆とは「サハー」、すなわちさまざまな苦しみを堪え忍ぶところという意味ですが、こうしたさまざまな苦しみはどこから来るかといいますと、ひとつはわれらを取り巻く状況からもたらされます。これまで健康に過ごしてきたのに急に重い病にかかってしまった、仕事を失い蓄えが底をついてきたなど、これらからもたらされる苦しみは状況が好転すればなくなります。しかし、このような状況に左右される苦しみとは別に、どんな状況におかれてもじわじわとわれらを苦しめるものがあります。状況に左右される苦しみは「わたしのいのち」が逆境に陥ることから生まれますが(したがって順境に転ずれば、嘘のようになくなりますが)、この苦しみは「わたしのいのち」の置かれた状況如何に関わらず、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」であることからやってきます。

「わたしのいのち」の懐く世界像はどのようなものでしょう。あるとき見も知らぬ世界のなかに一人ぽつねんと生まれてきます。気がついたらもうこの世界のなかに投げ出されているのです(これが実存主義の描きだす原風景です)。そして何十年かの間、他の「わたしのいのち」たちとともに喜怒哀楽の生活を送りますが、いつの日かまた一人寂しくこの世界から去っていかなければなりません。そして自分がこの世界から消えても、世界は何ごともなかったかのようにこれまで通りの歩みを続けていくことでしょう。この「何ごともなかったかのように」がいちばんこたえます。『無量寿経』に「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る」とありますが、この「独生独死、独去独来」こそ「わたしのいのち」の置かれた根源的状況です。

さて弘誓に遇うことができますと、この世界像は「わたしのいのち」への囚われが描き出しているものであることに気づかせてくれます。「わたしのいのち」をひとり一人が自分自身の力で裁量しているという思い込みがこの世界像を描かせていると。そしてそのとき同時に「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」(いのちの無尽のつながり)を離れては存立できないという気づきが与えられます、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」に生かされて生きているのだと。


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