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五功徳門 [「『正信偈』ふたたび」その66]

(6)五功徳門

これを見ますと、第一句の「功徳大宝海に帰入すれば」が近門、第二句の「かならず大会衆の数に入ることを獲」が大会衆門、第三句の「蓮華蔵世界に至ることを得れば」が宅門、第四句の「すなはち真如法性の身を証せん」が屋門、そして第五・六句の「煩悩の林にあそんで神通を現じ、生死の園にいりて応化を示す」が園林遊戯地門のそれぞれに当たると理解することができますが、さて問題はこれら五門の関係です。『浄土論』の説き方では第一門から第二門、そして最後に第五門となっていますから、ここには時間的な順序があるように思われます。近門から大会衆門へ、そしてさらに宅門へというように行の進展に伴ってその証果も深まっていくと。

よくある解釈では、近門で本願の信を獲て、大会衆門で正定聚の位となるとされます。そして宅門に至って浄土に往生することができ、屋門では浄土において真如の味わいを楽しむことができると理解されます。ここまでが自利の段階で、最後の園林遊戯地門は浄土から穢土に還ってきて、衆生済度という利他のはたらきをすることだと解釈されます。そして近門と大会衆門は現生の利益(現益)であるのに対して、宅門以下は来生の利益(当益)として、現世から来世への一連の流れとみなされます。五功徳門に時間的な序列をつけますと、このようにある意味すっきりした解釈になると思われますが、さてこれでいいのでしょうか。

この解釈の前提となっているのは、「正定聚になること」と「往生すること」は別であり、両者の間には時間の経過があるとする考えです。すなわち本願の信を獲たときに正定聚となるが(現生正定聚)、浄土に往生するのは臨終のときである(臨終往生)という立場がもとにあるということです。そしてそれと一体不離の関係にありますが、自利(すなわち往相)と利他(すなわち還相)もまた時間的に分けられ、現生においては自利、利他は来生においてとされます。この立場は現在の浄土真宗において確固たる地歩を得ており、そのように考えることがもはや常識のようになっています。しかしここから疑わなければなりません、そもそも天親や『浄土論』を注釈した曇鸞はそんなふうに見ていたのだろうか、そしてこの二人から圧倒的な影響を受けた親鸞(この名のりは二人の名から採られています)はどうだろうかと。


タグ:親鸞を読む
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