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『涅槃経』 [『教行信証』「信巻」を読む(その116)]

(8)『涅槃経』

第十八願成就文のあと、『涅槃経』から引かれます。

『涅槃経』にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに。大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲をうべし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに。菩薩魔訶薩は、もし二十五有(迷いの世界、三界をさらに二十五に分けたもの)を捨つにあたはず(は)、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性をいへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに。信心をもつてのゆゑに菩薩魔訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜(檀波羅蜜は布施、般若波羅蜜は智慧。それが乃至でつながれ、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六波羅蜜をさす)を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに。一子地の因縁をもつてのゆゑに菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。以上

『涅槃経』の文はすでに至心釈において引かれ、そこでは至心すなわち真実心が仏性であることが言われていました。ここでは大慈大悲大喜大捨の「四無量心」と「大信心」、そして「一子地」が仏性であると言われます。まずはことばの意味から。四無量心といいますのは、衆生に楽を与える慈無量心、衆生の苦を抜く悲無量心、人の楽を見て喜ぶ喜無量心、人に対して愛憎怨親の心がなく平等に利する捨無量心の四つで、菩薩の利他の心のことです。そして一子地とは一切衆生をひとり子のように憐れむ心をおこすことのできる位で、初地(十地の初め)を指します。


タグ:親鸞を読む
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