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即の時 [「『正信偈』ふたたび」その59]

(9)即の時

さて「即の時」です。本願力に生かされていると感じられた「その時に」必定(すなわち正定聚)に入るというのです。これが親鸞浄土教の肝である「現生正定聚」であり、その大元がここにあります。「即の時」とは「その時に」ということですが、もうひとつ踏み込んで言えば「もうすでに」という意味です。本願のはたらきをわが身の上に感じた「その時に」必定に入るのですが、しかし本願のはたらきはその時にはじまったわけではなく、もうとっくの昔からはたらいていたのですから、その意味では「もうすでに」必定に入っていたのです。ぼくがよく使う譬えでは、聴音検査をするときに、ボタンを押すのはかすかな音が聴こえた「その時」ですが、しかしその音は「もうすでに」届いていたはずで、ただそれに気づいていなかっただけです。そのように本願のはたらきは「もうすでに」届いていたことに「その時」気づくのです。

最後の第五・第六句のもとは同じく「易行品」の「もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬(くぎょう)の心をもつて執持(しゅうじ)して名号を称すべし」という一文と言えますが、一見したところ、「名号を称する」ことの位置づけが「易行品」と「正信偈」とでは大きく異なっているように思えます。「易行品」では「名号を称する」ことにより「不退転地に至る」とされますが、「正信偈」では「名号を称する」ことは本願のはたらきにより「不退転地に至る」ことができた「恩を報ず」ることであるとされています。これを原因・結果の関係として見ますと、「易行品」では「名号を称する」ことが原因で「不退転地に至る」ことが結果となり、対して「正信偈」では「不退転地に至る」ことが原因で「名号を称する」ことが結果となりますから、真逆であるように思われます。さてこれをどう考えるべきでしょう。

問題は「名号を称する」ことと「不退転地に至る」ことをどちらかが原因でどちらかが結果という関係として時間的に切り離すことができるだろうかということです。それを考えるためにもう一度、第三・第四句「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る」に戻りましょう。


タグ:親鸞を読む
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