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末那識 [『ふりむけば他力』(その36)]

(9)末那識

 そこで問題としたいのは、末那識(と阿頼耶識)という深層意識の存在をどのようにして知ることができるかです。それが深層意識であるということは、意識の及ばないところにあるということ、通常は意識していないということですが、それをどのようにして意識することができるのでしょう。そもそも「われ」は「われ」自身を知ることができません。「われ」は「われ」の外にある何かを知ることができますが、それをしている「われ」を知ることはできません。目は目を見ることができないということです。鏡を見ればいいじゃないかと言われるかもしれませんが、鏡に映っているのは「見られた“目”」でしかありません。
 フロイトやユングも深層意識のはたらきに注目した人たちですが、彼らはどのようにしてその存在を知ることができたのでしょう。それは夢です。われらが目覚めているとき、深層意識は姿を隠していて見えませんが、眠っている間に夢というかたちでその姿をあらわすということです。それに注目して深層意識の驚くべきはたらきを明らかにしていったのですが、このことは何を意味するでしょう。意識から深層意識への通路はありませんが、深層意識から意識への扉はあるということです。意識がどれほどこちらから深層意識をつかみ取ろうとしても果たせませんが、深層意識の方がむこうから意識の世界にふいに姿を見せてくるのです。末那識も同じでしょう。われらがどれほど末那識を捉えようとしても指の間からすり抜けていきますが、あるときふとむこうからその姿をあらわしてくるのです。
 「われへの囚われ」に目覚めることは、もちろん「われ」に起りますが、しかし「われ」がそれを起こすことはできません。「われ」が「われへの囚われ」に目覚めるということほど奇妙奇天烈なことはありません。「われへの囚われ」に目覚めるとは、「われ」は存在しないこと(無我)に目覚めることに他なりませんが、一体どのようにして「われ」が「われはない」ことに目覚めることができるでしょう。デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったのは、「われ」の存在を疑っても、疑ったその瞬間にそこに「われ」がいるということです(デカルトのこの有名なことばについては第7章でじっくり考えてみたいと思います)。

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