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第5回、本文1 [「『証巻』を読む」その42]

第5回 一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむる

(1)  第5回、本文1

これから『論註』の引用が「証巻」の終わりまで延々とつづきます。親鸞は還相のありようを語るのに、みずからはひと言も発せず、ひとえに『論註』に語らせるのです。まずはその最初の一文で、還相とは何かについてです。

『論註』にいはく、「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩(しゃま)()(止と訳される、禅定に入ること)・毘婆舎那(びばしゃな)(観と訳される、仏や浄土を観察すること)・方便力成就することを得て、生死の(ちゅう)(りん)(密林)に回入(えにゅう)して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を渡せんがためなり。このゆゑに、〈回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり」と。

この文は『浄土論』の中で五念門(礼拝、讃嘆、作願、観察、回向)のそれぞれが解説され、最後の回向について「いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首として大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」と述べられているのを受けて、曇鸞が注釈しているものです。先回の最後のところで述べましたように、親鸞はこの天親の文を「いかんが回向〈したまへる〉。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首として大悲心を成就することを得〈たまへる〉がゆゑに」と読み替え、主語を「われら」から「法蔵菩薩」へと転換しています。われらが「わがはからい」により「衆生を抜いて生死海を渡せん」とするのではなく、因位の法蔵菩薩がすでにそのようにはからってくださっているからこそ、われらもまた「衆生を抜いて生死海を渡せん」と願うことができるのだということです。

思い出されるのが第十八願成就文です。「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」というものですが、親鸞は「至心に回向して」以下をこう読みます、「至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。われらが「至心に回向して」と読むべきところを、親鸞は法蔵菩薩が「至心に回向したまへり」と読み替えてしまうのです。


タグ:親鸞を読む
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