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宿業の思想 [『歎異抄』ふたたび(その102)]

(3)宿業の思想


唯円は「悪をおそれなくていいなどというのは本願ぼこりであって、悪はつつしまなければならない」という考えを取り上げ、それを「本願を疑ふ、善悪の宿業をこころえざる」異義であると批判しているのです。「本願を疑ふ」といいますのは、弥陀の本願は悪人を正機としていることをこころの奥底で疑っているということです。悪人成仏のための本願とは言われるけれども、やはり悪をなすよりも善をなす方がいいに決まっていると思っているということです。そしてそんなふうに思うのは「善悪の宿業をこころえざる」ことに由来すると言うのです。われらは善きことをしようとして善きことをし、悪しきことをしようとして悪しきことをしていると思い込み、それらはみな宿業によるということを心得ていないと。


ここから宿業の思想がはじまります。


唯円は「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」と言い、さらに「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」という親鸞のことばを紹介します。この宿業の思想は親鸞浄土教のエッセンスとも言うべく、その含意するところがきわめて深いのですが、その反面、誤解を受けやすいとも言えます。そこでじっくり腰を据えてその思想を汲み取っていきたいと思いますが、まずは宿業という文字の意味から。宿とは過去ということで、業とは行為ということですから、過去になした行為という意味で、いま「よきこころのおこる」のも、あるいはいま「つくる罪」も、みなこの宿業によるというのです。


これを聞いてごく自然に頭に浮ぶのは、いま何をなすかはみな過去に規定されているとすれば、われらには自由はないということになるじゃないか、という思いでしょう。そしてそんなばかなことはないという反発がおこるに違いありません。右手を上げようと思えば右手が上がるし、左手を上げようと思えば左手があがるように、われらはものごとを自由に決めることができる。それができなくなることがどんなに苦痛であるかを考えてみれば、われらにとって自由こそ本質的であり不可欠であることがすぐ分かると。さらにはこんな疑問が生まれます、もしわれらの行為が過去に規定されているとすれば、どんな犯罪行為もその責任を問えなくなり、世のなか無法状態になってしまうではないか、と。



タグ:親鸞を読む
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