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「わたし」はあるのか? [『末燈鈔』を読む(その174)]

(5)「わたし」はあるのか?

 デカルトは「わたし」の存在をも疑いました、ほんとうにそのようなものがあるのかと。そしてこう結論します、「われ思う、ゆえにわれあり」と。「わたし」の存在を疑うとしても、そう疑っている「わたし」がいるではないかというのです。しかし、どうでしょう。「わたし」の存在を疑っているとき、疑われている「わたし」と疑っている「わたし」が同じ「わたし」である保証はあるのでしょうか。
 昨日の「わたし」と今日の「わたし」が同じであることを疑う人はいないと言いましたが、しかし疑おうと思えば疑えます。実際のところ、昨日の「わたし」と今日の「わたし」は細かく見れば少し違います。昨夜お風呂で髪の毛を洗いましたので、なけなしの髪の毛が何本か抜けたことでしょう。あるいは、昨日はどうも気分が欝でしたが、今日はそうでもありません。
 いや、髪の毛が少なくなっても、気分が変っても、それでもきみはきみではないか、同じきみだよ、と言われるでしょう。でも、その同じ「わたし」とはいったい何か。何が正真正銘の「わたし」か、と一枚一枚服を脱いでいっても、ラッキョウの皮をむくようなもので、どこまでいっても皮ばかりではないでしょうか。かくして自由と同じく、自己同一的な「わたし」の存在も証明することができません。
 証明できないけれども、しかし紛れもなく「わたし」はあります。それを否定されることは、自由を否定されることと同じく耐えがたい。自由も「わたし」も、ほんとうにあるのかと言われても、それを証明することができませんが、でも、それがあるということの上にぼくらの生存は成り立っているようです。それがないなどと言われたら、もうどうしていいか分からなくなる。


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