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念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて [『歎異抄』ふたたび(その53)]

(10)念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて

 曇鸞の文から汲み取らなければならないのは、われらはともすると他利であることを利他と思ってしまうということです。如来の本願力がなさしめているにもかかわらず、われら自身の力でなしていると勘違いしてしまう、それを誡めているのです。「人を教えて信ぜしむ」力は如来にしかないのに、いつの間にか自分の力で利他教化していると思い込むということです。それが途方もない傲岸不遜であるということ、第4章が言わんとしている真意はそこにあると言わなければなりません。
 「念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益する」というのは、「おもふがごとく衆生を利益する」ことができるのは仏になってからであり、「今生に、いかにいとほし不便とおもふとも」、それは如来の本願力によるしかないということをゆめゆめ忘れるなかれと言っているのであり、決して「いとほし不便とおもふ」ことは無意味であると言っているのではありません。いや、無意味であるとかないとか言う前に、われらとしては「ものをあはれみ、かなしみ、はぐく」まざるをえないようにつくられているのです。
 また思い出すことがあります、恵信尼が手紙の中で伝えてくれるひとコマです。「武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにて」、親鸞が「げにげにしく三部経を千部よみて、すざう(衆生)利益のためにとて、よみはじめ」たことがありました。おそらく何か大きな不幸の現場に出あい、親鸞は「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」思いに駆られたにちがいありません。しかし、彼はすぐ「これはなにごとぞ」、「名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと」と思い返して、読むのをやめたのでした。
 「すざう利益のために」「三部経を千部読む」というのは、自分の力で「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむ」ことに他ならないと気づいたのに違いありません。「名号のほかにはなにごとの不足にて」とはその気づきのことを言っています。かくして「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふ」となるわけですが、これは決して、念仏するだけでよく、あとは来世に仏に成るのを待てばいいのだ、といっているのではありません。

                (第5回 完)

タグ:親鸞を読む
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