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道俗ともにあひきらひ [はじめての『高僧和讃』(その161)]

(11)道俗ともにあひきらひ

 次の和讃です。

 「五濁増(ごじょくぞう)のときいたり 疑謗(ぎほう)のともがらおほくして 道俗ともにあひきらひ 修するをみてはあだをなす」(第83首)。
 「不幸なときがやってきて、念仏うたがう人おおく、道俗ともに嫌っては、念仏衆にあだをなす」。

 念仏はいつの時代も嫌われてきました。他の行とともに念仏するのはいいのですが、念仏だけとなりますと、厳しい非難と軽蔑が振り向けられてきたのです。その理由は明らかで、たいして努力もしないで往生浄土という甘い汁だけを吸おうというのは虫がよすぎるということです。「念仏はかひなきひとのためなり、その宗あさしいやし」(『歎異抄』第12章)というのが念仏に対して投げつけられてきた常套句です。それは現在も同じで、たとえば禅と念仏を比べますと、知識層に人気があるのは禅であり、念仏は田舎のおじいさん、おばあさんのものと思われています。知的で努力を惜しまない人の禅と、愚かで甲斐性のない人の念仏と。
 しばしば他力本願ということばがダメ人間に対してぶつけられます。他人をあてにして自分では何もしないと非難されるのです。
 しかしここには他力本願(親鸞は他力本願よりも本願他力と言うことが多いですが)に対する根本的な誤解があります。他力をたのむというとき、たのむべき他力が前もってあるわけではありません。これはたよりになるだろうかどうだろうかと吟味して、それにクリアしたからたのむという構図ではないのです。そうではなく、あるときふと本願他力に気づくのです、そしてそれがもう他力をたのむことです。
 もうすでに他力のなかにいることに気づくのです。
 前もって存在している他力をあてにするのではなく、「あゝ他力のなかにいる」と気づいてはじめて他力がその姿をあらわすのです。もうすでに他力のなかにいるのですから、「他力にたよるなんて」と非難されようと如何ともしがたい。そこから出てくるのが「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」(『歎異抄』第2章)ということばです。

タグ:親鸞を読む
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