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南無阿弥陀仏をとなふれば [親鸞の和讃に親しむ(その35)]

(5)南無阿弥陀仏をとなふれば

南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きはもなし 流転輪廻のつみきえて 定業中夭(じょうごうちゅうよう、定業は定まった寿命、中夭は早死)のぞこりぬ(第99首)

南無阿弥陀仏を称えれば、この世の利益はてもなし。流転輪廻に囚われず、生き死ぬことに迷いなく

浄土の教えはあの世についての教えではありません、この世についての教えです。あの世の利益を説くのではありません、この世に利益を説くのです。救いは「いまここ」にしかありませんから、「臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき、往生また定まるなり」(『末燈鈔』第1通)です。また「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『歎異抄』第1章)です。そしてこの和讃にありますように、南無阿弥陀仏に遇うことができれば、それだけで「この世の利益きはもなし」です。

さて、救いは「いまここ」にしかないと言いましたが、それはどういうことでしょう。どうして救いは「これから」やってくることはないのでしょう。救いは「いまここ」に、ということは、「もうすでに」救われているということに他なりませんから、この問いは救いはどうして「もうすでに」であって「これから」ではないのかということになります。ことはやはり自力か他力かということに関係します。救いは自力で手に入れるものか、それとも他力により与えられるものか、ということです。もし救いは自力で得るものでしたら、それは「これから」のこととなります。しかし他力により与えられるものでしたら、それは「もうすでに」のことです。

いろいろな問いが浮びあがります。まずどうして救いは自力で得るものならば「これから」なのか、「もうすでに」得ていることもあるではないか、という問い。それにはこう答えましょう、たとえ「もうすでに」得ているとしても、「これから」もそれを失くさないよう気を張りつづけなければなりません、と。そして次にどうして救いは他力で与えられるものならば「もうすでに」なのか、「これから」与えられることがあってもいいではないか、という問い。これにはこう言いましょう、他力の救いはそれに気づいてはじめて存在するからであり、そしてその気づきは「ああ、もう救いは与えられている」というかたちをとるからですと。(つづく)


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