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人に就いて信を立つ [『教行信証』「信巻」を読む(その61)]

(10)人に就いて信を立つ


 深心釈の第四段です。


 釈迦一切の凡夫を指勧(しかん)して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、おなじく勧め、おなじく証したまふ。なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦、極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて、一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪無信の盛りなる時において、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と。すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実(じょうじつ)の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近(くごん)を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠(しょうじょう)したまふなり。これを人に就いて信を立つと名づくるなり。乃至


 先の文で「ただ仏語を深信せよ」と言われていましたが、ここではその仏を釈迦仏と他の諸仏に分けた上で、「一仏(釈迦)の所化は、すなはちこれ一切仏(他の諸仏)の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化」であることが述べられます。釈迦と諸仏は一体(同体の大悲)であるということです。そしてこのことを指して「人に就いて信を立つ(就人じゅにんりっしん」と言われ、次の段で「行に就いて信を立つじゅぎょうりっしん」ことが述べられるのと対となっていますがここで「人」とは釈迦と諸仏を指します。





タグ:親鸞を読む
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