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後悔と懺悔 [親鸞最晩年の和讃を読む(その99)]

(6)後悔と懺悔

 しかし重ねてお聞きしたい、「あなたが割り込みをしてはならぬ、とみずからにきつく命じるのは、あなたのなかに割り込みの衝動が潜んでいるからではないでしょうか」と。もしその衝動がないとしますと、誰かが割り込みをしたとしても、それを倫理的に非難はしても、無性に腹が立つことはないのではないかと思うのです。だとしますと、割り込みをするかしないかは違っても、割り込みをしたいという衝動があるということでは何も変わらないということになります。大急ぎで言わねばなりませんが、割り込みをするかしないかは天と地の違いであり、理性の命令に従うか、衝動のままにふるまうかは人間の尊厳にかかわることです。ただしかし、その衝動をかかえている点では同じだということ、これを忘れてはならないと思うのです。
 倫理はそこに目が届きません。それは宿業の気づきがないということです。「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはせらるるも、悪業のはからふゆゑなり」という気づきは、人にはみなさまざまな衝動が渦巻いており、それが実際に行為として外に現れるかどうかは、その人の宿業のもよおしでありはからいであるということです。倫理の平面では善人と悪人のコントラストがくっきりしていますが、宿業の気づきがありますと、人はおしなべてみな悪人であるという自覚が生まれ、そしてその自覚はおのずから懺悔(さんげ)を伴います、「恥ずべし、傷むべし」と。
 後悔と懺悔について考えておきましょう。どちらも、どこかから「そんなことでいいのか」という声がして、その前にうなだれることは同じですが、その声がどこからくるかが違います。後悔の場合は、わが内なる理性からやってきます、「おまえは衝動のままにふるまっているが、そんなことでいいのか」と。その声が聞こえた人は、「あゝ、これではいけない、これからは衝動に振り回されないようにしなければ」と反省します。これが倫理的後悔です。一方、懺悔の場合はと言いますと、「そんなことでいいのか」の声は自分の中からではなく、外からやってきます。

タグ:親鸞を読む
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