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法蔵菩薩とは誰 [「『証巻』を読む」その65]

(2)法蔵菩薩とは誰

法蔵菩薩とは誰か。『大経』にはこうあります、「時に国王ありき。仏(世自在王仏)の説法を聞きて、心に悦予(えつよ)を懐く。すなはち無上正真道(この上ない仏の覚り)の意(こころ)を発(おこ)す。国を棄て王を捐(す)てて、行じて沙門となる。号して法蔵といふ」と。国王であった人が仏の説法を聞いて菩提心を抱き、すべてを棄てて沙門となったと言いますから、おそらく釈迦がモデルとなっているのでしょうが、いずれにせよ一人の人間であることは間違いありません。阿弥陀如来という超人間的な存在から話がはじまるのではなく、法蔵菩薩というわれらと同じ人間が登場してくること、ここにはどのような意味があるのでしょう。

端から阿弥陀如来が「あらゆる衆生を救おう」という願いを立てられたと説けばいいのに、そうはせずに、法蔵菩薩が「(にゃく)不生者(ふしょうじゃ)不取(ふしゅ)正覚(しょうがく)(もしあらゆる衆生が浄土へ生まれることがないようならば、わたしは仏とならない)」(第十八願)と誓願し、それが成就して阿弥陀仏となられた説かれるのですが、ここには重要なメッセージが込められていると思われます。それは、弥陀の本願と言うものの、その本は法蔵菩薩という一人の人間の願いであるということ、これです。かくして本願は一気にわれらに近しいものになりますが、さてしかし法蔵菩薩は並の人間ではありません。「正信偈」表現をお借りしますと、「諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見(とけん)して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受(しょうじゅ)す」とありますように、法蔵菩薩はとてもわれらと同じ人間とは思えません。

あらためて問いましょう、法蔵菩薩とは誰か。

法蔵菩薩はわれらの真実の姿を物語的に形象化したものと考えることができます。「ほんとうの自分」。いまここにいるのは「ほんとうの自分」ではなく、「ほんとうの自分」は実は法蔵菩薩のような存在であるという考え方です。プラトン的に言いますと、われらは法蔵菩薩という「ほんとうの自分」がいたことをすっかり忘れていましたが、いや、忘れていること自体を忘れていましたが、あるときふと法蔵菩薩という「ほんとうの自分」を思い出す。そして法蔵菩薩の誓願も、実はあれが自分の「ほんとうの願い」なのですが、そのことをすっかり忘れて、日々わが身勝手な願いにうつつを抜かしていたことに思い至るということです。


タグ:親鸞を読む
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