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つねにわが身を照らしたまふ [『教行信証』「信巻」を読む(その86)]

(3)つねにわが身を照らしたまふ


 『往生要集』からの二つ目の文、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」ですが、親鸞がこれをどれほど大切にしているかはさまざまなところから窺うことができます。たとえば「正信偈」には「我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふ)」とほぼ同じ形で出てきますし、また和讃でも「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」(『高僧和讃』「源信讃」)と詠われています。


『往生要集』のこの文は、『観経』「真身観」の有名な文、「(無量寿仏の)一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」を出したあと、それに関連して述べられています。すなわち源信が言うには、われもまたこの無量寿仏の摂取の光明のなかに包まれているが、しかし煩悩の眼ではその光明を見ることができない、にもかかわらず大悲の光明はつねにわが身を照らしてくださっている、ということです。この文は二重の逆説で成り立っています。第一文:われもまた摂取の光明のなかにある、第二文:しかしながら煩悩に遮られてその光明を見ることができない、第三文:しかしながら大悲の光明は間違いなくわれをつねに照らしてくださっている、というように二重の逆説で摂取の事実を強調しているということができます。


さてここで考えたいのは、摂取の光明を見ることができないのに、どうしてその光明につねに照らされていると言うことができるのかということです。答えはただ一つ、摂取の光明は「見る」ことができるのではなく、ただ「感じる」ものであるということ、これです。「見る」ことと「感じる」ことのコントラストにあらためて光を当てておきたいと思います。



タグ:親鸞を読む
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