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ひとへに親鸞一人がため [『歎異抄』ふたたび(その109)]

第12回 みなもつてそらごとたはごと


 (1) ひとへに親鸞一人がため


  「『歎異抄』ふたたび」も最終回になりましたが、後序からその一部を読んでおきたいと思います。


 聖人のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。さればそくばく(そこばく、多く)の業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。


 ぼくはいまマンションの6階に住んでいますが、目の前に冬の美しい青空が窓いっぱい広がっています。あさ目覚めたときなど、この光景を目にして「ああ、世界は美しい」という感慨に浸りますが、そのようなとき、この美しさは「ひとへにわれ一人がため」と感じることがあります。世界の美しさをひとり占めしているような感覚になるのです。もちろん世界はみんなのためにあり、その美しさはみんなが堪能しているに違いないのですが、でも「われ一人がため」と思える。


これは美しさに没入しているときには、世界に自分一人しかいないという感覚になるということでしょう。自分が一人で世界と向き合っているという感覚、実存主義はこれを大切にしました。実存とは“existence”、すなわち「外に立つ」という意味で、「みんな」から外に出て単独者(これは実存主義の生みの親とされるキルケゴールのことばです)として世界と向き合うということです。


親鸞が「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と言うのも同じ感覚ではないでしょうか。弥陀の本願はもちろん一切衆生のためにあるのですが、でもその本願に「遇ひがたくしていま遇ふことをえた」とき、それは「ひとへに親鸞一人のため」と感じる。親鸞は世界にたった一人の人間として本願の有り難さに没入しているのです。



タグ:親鸞を読む
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