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すなはち往生をう [『教行信証』精読2(その100)]

(13)すなはち往生をう

 結論を先取りしますと、親鸞は往生も信心のときとすることで曇鸞の大経的往生観をそっくり引き継いだのではないでしょうか。以下、親鸞のことばを拾いながら、そのように考える根拠を示したいと思います。
 親鸞はさまざまなところで往生と正定聚とは同じであると述べています。『一念多念文意』において「真実信心をうれば、すなはち無碍光如来の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを『往生をう』とはのたまへるなり」とありますし、『唯信鈔文意』には「『即得往生』は、信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり」とあります。どちらも第18願成就文の「即得往生」を注釈することばで、この往生とは正定聚のことだと述べているのです。
 ということは、正定聚が信心のときですから、往生もまた信心のときとなるのが当然の結論ではないでしょうか。
 ところが真宗の大方の解釈では、これらの文章を次のように解説します。第18願成就文に「即得往生」とあるのは、文字通り往生することではなく、来生の往生が約束される正定聚になるということであり、親鸞はそこを誤解しないように、わざわざ「正定聚の位につき定まるを『往生をう』とはのたまへるなり」と釘をさしているのだ、と。こうして現生では正定聚の利益がえられ、来生で往生という利益がえられるという、いわゆる「現当二益」の考えが貫かれるのですが、これは、そもそも往生は来生のことであるという前提の下で、その結論にうまく合致するように解釈していると言わざるをえません。
 所詮こういう議論は不毛と言うしかありません。まず結論ありきで、文章を都合のいいように読んでいるのですから。大事なことは往生とはどういうことをさしているかを、文字をこねくり回す訓詁学によってではなく、生きた経験から明らかにすることです。そうすることではじめて往生のときがいつであるかが判明するでしょう。

タグ:親鸞を読む
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