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触光柔軟の願と聞名得忍の願 [「信巻を読む(2)」その50]

(4)触光柔軟の願と聞名得忍の願

では真の仏弟子である証とは何か。まず経典から引かれます。

『大本』にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙(かぶ)りてその身に触るるもの、身心柔軟(にゅうなん)にして人天に超過せん。もししからずば、正覚を取らじと。

たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍(無生の生という真理を悟ること)、もろもろの深総持(じんそうじ、仏の教えの精髄が収められた章句のこと。ここでは仏の智慧)を得ずは、正覚を取らじ」と。以上

『無量壽如来会』にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、周遍十方無量無辺不可思議無等界の有情の輩(ともがら)、仏の威光を蒙りて照触(しょうそく)せらるるもの、身心安楽にして人天に超過せん。もししからずは、菩提を取らじ」と。以上

一つ目は『大経』の第三十三願、「触光柔軟(そっこうにゅうなん)の願」で、二つ目は同じく第三十四願、「聞名得忍の願」で、三つ目は『如来会』の第三十三願です。弥陀の光明に照らされることで身心柔軟(身心安楽)となり、弥陀の名号が聞こえることで無生法忍という仏の智慧が得られるというのです。光明に照らされ身心柔軟になること、名号が聞こえることで無生法忍が得られるということ、これが真の仏弟子となった証だということです。

これまで弥陀の本願は名号として衆生に届けられると述べてきましたが、本願が届けられる媒体としてもう一つ光明があります。それについて善導はこう言います、「しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化(せっけ)したまふ。ただ信心をして求念(ぐねん)せしむれば、上一形を尽くし、下十声一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し」(『往生礼讃』)と。親鸞はこれを受けて「行巻」でこう言います、「まことに知んぬ、徳号(名号)の慈父ましまさずは能生の因かけなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁そむきなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごっしき)にあらずは光明土に到ることなし」と。


タグ:親鸞を読む
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