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等覚と大涅槃 [正信偈と現代(その33)]

(5)等覚と大涅槃

 さて第3句「成等覚証大涅槃(等覚をなり、大涅槃を証することは)」です。等覚と大涅槃が並べられていますが、等覚とは仏の正覚のひとつ手前で、親鸞が『尊号真像銘文』で解説してくれますように、正定聚ということ、仏となることが定まったということで、もうひとつ言えば、仏とひとしいということです(親鸞は「弥勒のくらゐとひとし」と言っていますが、同じことです)。そして大涅槃を証するとは仏になることに他なりませんから、この句は、まず等覚となり、そして涅槃に至り仏となると言っているのです。
 浄土真宗のオーソドクスな教えでは、等覚(正定聚)になることを「即得往生」、仏になることを「難思議往生」と呼び、往生に二種類あると説きます。そのような説き方がされるようになったのは、おそらく蓮如の「おふみ」からでしょう。第1帖の第4通にこうあります、「問ていわく、正定聚と滅度とは、一益(いちやく)とこころうべきか、また二益(にやく)とこころうべきや。答ていわく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに、滅度は浄土にてうべき益にてあるなりとこころうべきなり。されば、二益なりとおもうべきものなり」と。
 ここにはっきりと現生において正定聚、来生において滅度(涅槃と同じです)と説かれ、この二つを別もの(二益)としています。
 正定聚とは「仏となる身に定まること」であり、滅度とは「仏となること」ですから、この二つはもちろん別ですが、でも「方や穢土、方や浄土」、「方や今生、方や来生」というように、空間的にも時間的にも切り離されますと、「それはちょっと」と言いたくなります。そのようにはっきり分けられますと、親鸞が「現生正定聚」という新しい視座をえた意味が薄れてしまうのではないでしょうか。今生において「仏となる身に定まる」とは言っても、あくまでも来生に「仏となる」ことに力点が置かれますと、今生はただひたすらそれを待ち望むだけの時間に薄まってしまうと思うのです。

タグ:親鸞を読む
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