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善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや [『観無量寿経』精読(その85)]

(6)善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや

 下品上生のものは、経の文字の上では、善知識の勧めで、ただ「仏名を称するがゆゑに」往生できるように見えます。そこから、これでは上品や中品のものたちと比べてあまりに公平を欠くのではないかという印象が生まれてくるのですが、実はそこに本願他力の信楽(気づき)が隠されているのでした。顕の義では「仏名を称するがゆゑに」往生できるのですが、彰の義では「本願他力を信楽するがゆゑに」往生できるのです。それはこの中生のものも同じで、経の文字の上では、善知識が「阿弥陀仏の十力威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説」くのを聞くだけで「八十億劫の生死の罪が除」かれ往生できるように見えますが、実は善知識のことばを聞くなかで、そのことばを通して阿弥陀仏みずからの招喚の声が聞こえ、そのゆえに往生できるのです。
 かくして、定散二善の善人も下品の悪人も、結局のところ、本願他力に遇うことにより往生できるのであり、その点で何の変わりもないことになります。いや、それどころか、さらにここから「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という驚くべき価値の転換が生まれてきます。『歎異抄』第3章の言うところに耳を傾けてみましょう。「しかるに世のひとつねにいはく、悪人なほもつて往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」。この文で自力作善の人とされているのが『観経』における定散二善の善人たちで、彼らは万善諸行を修し、それを回向することで往生しようと考えていますから、「本願他力の意趣にそむ」いていると言うのです。
 しかしそんな自力作善のひとも、その「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」とあります。自力作善のひとは、その自力作善により往生できるのではなく、自力作善に励む途中において、思いがけず本願他力に遇うという経験をして、「ああ、往生は自力によるのではなく、本願他力に乗じてはじめてできるのだ」と気づくのです。自力の人も、遅まきながら、救いは自力ではなく、他力によるのだと気づく。ここに定散二善が方便として勧められる意味があります。

タグ:親鸞を読む
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