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「ひかり」の譬え [『正信偈』を読む(その16)]

(7)「ひかり」の譬え

 妻が短歌をやっていまして、ときどき持ってくるのですが、「まあいいんじゃないか」と適当にやり過ごしています。歌はつくれないし、うまく批評することもできませんが、ただひとつ思うのは、何かがこころを動かしたとき、その何かをそのまま描写しても、おもしろくも何ともないということです。
 あることが間違いなくこころを動かしたのだけど、どう動かしたのかがことばにならない。そんなとき譬えるしかありません。その譬えがピタッとはまるかどうか、ここが勝負ではないでしょうか。何か偉そうなことを言っているような感じがして気が引けますが、言いたいのは「気づき」のことです。
 あるとき、ふと気づきがあった。そしてこころに喜びが満ち溢れた。それ自体は確かですが、それをことばにしようにも「ことばもたへたり」です。で、それを譬えるしか手はありませんが、何に譬えるべきか。浄土の教えではやはり「ひかり」でしょう。一条のひかりが射しこんだようだと。
 真っ暗な部屋に一筋の光線が射しこんだ。それではじめて分かったのです、ここが真っ暗な部屋であることが。これは次章のテーマとなることですが、ひかりがあってはじめて闇が闇となるのです。さて、普通はこのように「一条の光が射しこんだようだ」という譬えでよしとされるのでしょうが、このひかりは並みのひかりではありません。何しろぼくらを踊躍歓喜させ、これまでの生き方を一変させるのですから。
 また因幡の源左に登場ねがいましょう。あるとき源左に「源左たすくる」の声が聞こえたのでした。それを「一筋のひかりが見えた」と言ってもいいでしょう。彼はそれを「ようこそ、ようこそ」と受けたのですが、このひかりは名状しがたいだけではなく、彼の人生を丸ごと変える力を秘めていたのです。


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