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明日は明日みづから思い煩はん [「『正信偈』ふたたび」その48]

(8)明日は明日みづから思い煩はん

さて「自力のこころ」は、それをどこまでおし進めても「他力のこころ」に出ることはできません。「自力のこころ」が「これから」の時間をどれほど先まで切り拓いても、いつの日か「もうすでに」の時間のなかに入るわけではなく、どこまでいっても「これから」の時間があるだけだということです。つねに「これから」の時間をどう切り拓いていくかを考えなければならず、いわば「これから」の時間に脅かされています。ときに「もうすでに」の時間をふり返ることもあるでしょうが、それはあくまでも「これから」の時間を先に進めるためであり、「もうすでに」の時間のなかに落ち着くことではありません。「もうすでに」の時間に腰を下ろしてしまいますと、それはもはや「自力のこころ」とはいえなくなっています。

一方、「他力のこころ」はどうかと言いますと、これはつねに「自力のこころ」と共にあります。「他力のこころ」は「もうすでに」の時間のなかで「あんじん」を得ていますが、だからと言ってその「あんじん」の上に寝入ってしまうことはなく、「これから」の時間をどう生きるかを考えています。しかし、もはや「これから」の時間に脅かされ、不安に駆られることはありません。「もうすでに」の時間のなかで「あんじん」を得ていますから、「これから」の時間に何が起ころうと、「そのときはそのとき」という思いをもって軽やかに生きることができます。頭に浮ぶのはルターが言ったとされる「たとえ明日世界が滅びようと、ぼくは今日りんごの木を植える」ということばです。あるいはイエスの「明日のことを思い煩うな、明日は明日みづから思い煩はん。一日の苦労は一日にて足れり」ということばです。

さて問題はこの「他力のこころ」は、それを得ようとして得られるものではないということです。先ほど言いましたように、「自力のこころ」から「他力のこころ」へ出る道は閉ざされています。そもそも「他力のこころ」を「自力のこころ」で得ることほど妙ちきりんなことはなく、「他力のこころ」は「他力のこころ」から与えられるしかありません。これはしかしどういうことか、その意味することを理解するのは「難のなかの難、これに過ぎたるはなし」と言わざるをえません。


タグ:親鸞を読む
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