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無我ということ [『ふりむけば他力』(その31)]

(4)無我ということ

 さてA(B)≠A(C)に戻りますと、現実に存在するぼくは、亡き父母との関係におけるぼく、兄弟姉妹との関係におけるぼく、妻との関係におけるぼく、子との関係におけるぼく、友人たちとの関係におけるぼくなどなどであり、それらとは別に「ぼくそのもの」はどこにもいないというのが縁起の教えです。これはしかしわれらの普通の感覚とは大きくズレていると言わなければなりません。ぼくは確かにさまざま人たちとの関係のなかにありますが、しかしそれらを貫いて同じぼくがいるのではないでしょうか。もしそうでないとしますと解離性同一性障害(いわゆる多重人格)を精神の病と言えなくなります。そして自分のなしたことを他の人格の行為であるとしてその責任を言い逃れることもできるようになります。
 ここから分かりますように、われらは他との関係に関わりなく同じ「われ」がいるという前提のもとに生きているのですが、釈迦はそんな「われ」の存在を否定するのです。これが無我ですから、縁起は無我と同じであることが分かります。他との関係から切り離され、それ自体として存在するものは何ひとつないということは、実体としての「われ」はないということです。ところがわれらは、この世に生まれてから死ぬまで(ある意味では死んでからも)同じ「われ」がいると思っています。昨日のぼくと今日のぼくはさまざまな点で違っているでしょうが(悲しいかな、髪の毛がいくらか減っているでしょうし、昨日は快活であったぼくが今日はとても憂鬱な気分です)、でも間違いなく同じぼくです。もし昨日と今日で違う人格でしたら、昨日の借金はもう返す義務がなくなり、世の秩序はガラガラと崩れてしまいます。
 しかし釈迦はそんな「われ」は存在しないというのです。それはわれらがわれらの都合で仮構しているだけで、実際にそんな同一の「われ」がいるのではないと。これが無我ということです。インドでは伝統的に「常・一・主・宰」の「我(a(―)tmanアートマン)」が真の実在であるとされてきたのですが、これを否定したのが釈迦の「無我(ana(―)tmanアナートマン)」です。「常住であり(常)」、「唯一であり(一)」、「あらゆるものの主人であり(主)」、「すべてを支配している(宰)」ような「アートマン」はどこにも存在しないということです。

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