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現実ではないが [正信偈と現代(その96)]

(6)現実ではないが

 物語とは「創られたお話」ということ、つまり虚構、フィクションですから、まさに真実の対極にあるものと考えられます。だからこそ「物語のことば」で語られたことなど受け入れることができないと拒絶されるわけです。その場合、真実とは「現実と一致していること」と了解されています。これは広く常識に受け入れられた見解ですから、それに異を唱えるつもりはまったくありませんが、ただその基準だけで真実かどうかを判断するのはあまりに狭いのではないかと思うのです。現実と一致していなくても真実と言えることはあるのではないか。
 何度も引き合いに出すようで恐縮ですが、もう一度キング牧師のことばを思い起こしたいと思います。「私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です」。この夢にはまごうことなき真実があるのではないでしょうか。それはもちろん現実ではありません。現実は白人が黒人を差別し、黒人はそんな白人を憎んでいます。だからこそ、キング牧師は両者が同胞として同じテーブルにつくことを夢みたわけですが、その夢に真実がある。現実と一致していないことに真実があります。
 なるほどそうかもしれないが、しかしキング牧師は実在の人で、実際にそのような夢をもち、それに向けて文字通り命をかけたからこそ真実があるのではないか。それに引き換え、法蔵菩薩の願いというのはまったくの虚構だから、そこに真実があるとは言えない、という声が出ることでしょう。そこで考えてみたいのですが、もしキング牧師が実在の人ではなく、すべてが小説のなかの出来事であるとしたらどうでしょう。キング牧師が実在しないとしても、キング牧師を主人公とする小説が出されたら、人々の大きな共感を呼び、そこに真実を感じるのではないでしょうか。
 キング牧師の夢に真実を感じるのは、キング牧師が実在の人物であるからではなく、その夢そのものに真実があるからに違いありません。

タグ:親鸞を読む
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