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『歎異抄』を読む(その26) ブログトップ

6月10日(日) [『歎異抄』を読む(その26)]

 これまで「生きる意味」という観点から第一章を読んできました。若者たちに「生きる意味」が希薄になっているようだけど、「なむあみだぶ」はぼくらに「生きる意味」を届けてくれるメッセージだと言いました。どこかから、ふと「生かしめんかな」と聞こえてくる。あるいは「そのまま生きていていいよ」と聞こえる。それが「なむあみだぶ」だと申しました。
 一時期「千の風になって」という歌が人の心をつかんだようですが、何かぼくらを打つものがあるのでしょう。あの歌は、亡くなった父や母は墓の中にいるのではなく、千の風になって「なむあみだぶ」の声を届けてくれているということではないでしょうか。風の音も、鳥の声も、「こんにちは」の挨拶もみんな「なむあみだぶ」と聞こえる。「そのまま生きていていいよ」と聞こえるように思うのです。
 この間テレビを見ていましたら、病気や事故で失明した人たちのことを取材していました。その中で印象に残った話があります。目の不自由な人が道を歩いていて、白い杖を誰かの足に当ててしまった。「あっ、ごめんなさい」と言いますが、それに対して何も返答がない。そういうことはよくあるそうです。
 目が見えれば、相手の反応をすぐ目で確認できますが、目が見えないとものすごく不安になるといいます、相手は一体どう思っているのだろうかと。ひょっとしたらひどく腹を立てているのかもしれない。邪魔だと思われているかもしれません。そんな時、「気にしなくていいですよ」の一声がどんなに有難いか、とその人は言っていました。そうか、彼らは周りの人たちの声が頼りなんだと今更ながら思いました。

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