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帰敬偈 [正信偈と現代(その4)]

(4)帰敬偈

 このように正信偈は「行巻」を凝縮したものであるとともに、『教行信証』全体のエッセンスであるということもできます。したがってこの中に親鸞の浄土思想の核心が詰まっているわけで、蓮如がこれに注目し、お勤め用の聖典としたのはいかにも慧眼と言わなければなりません。
 では帰敬偈に入っていきます。「帰命無量壽如来 南無不可思議光」。これは天親が『浄土論』の冒頭で「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国(世尊、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず)」と述べているのと同じで、正信偈のはじめに、「無量壽如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる」と表敬しているのです。
 まず「帰命」とは「こころから敬います」という意味で、「namo(南無と音写)」を漢訳したものです。インドでは「こんにちは」(あるいは「さようなら」)の挨拶として「ナマステ(namaste)」と言いますが、これは「namas(namoと同根で、敬います)」に「te(あなた)」がついたもので、「あなたを敬います」が「こんにちは」あるいは「さようなら」の挨拶としてつかわれるようになったのです。かくして第1句の「帰命」と第2句の「南無」は同じであることが分かります。
 では「無量壽如来」と「不可思議光」とは何かと言いますと、どちらも阿弥陀仏のことです。阿弥陀仏はアミターバすなわち「無量のひかり」、あるいはアミターユスすなわち「無量のいのち」の仏ということで(「amita」とは「無量の」「無限の」という意味)、「無量光仏」あるいは「無量寿仏」と漢訳されます。こうして「帰命無量壽如来」も「南無不可思議光」も、要するに「南無阿弥陀仏」で、「無量のいのちであり、無量のひかりである阿弥陀仏をこころから敬います」ということです。
 さて「南無阿弥陀仏」を名号といい、親鸞はこれを『無量寿経』の「体」であると述べています(「ここをもて如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」教巻)。この六文字のなかに『無量寿経』のすべてが詰まっているということでしょう。

タグ:親鸞を読む
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