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むこうから証明される [はじめての『尊号真像銘文』(その68)]

(15)むこうから証明される

 ピタゴラスの定理はそれが真理であることをどのようにして証明できるか。それは「こちらからゲットする真理」ですから、それが真理であることの証明もさまざまな手を使い「こちらから」しなければなりません。中学の数学の時間にその方法を教えてもらったとき、その鮮やかさに目を奪われ、数学のおもしろさに目が覚めたような気がしました。では「むこうからゲットされる真理」である弥陀の本願は、それが真理であることはどのように証明されるのでしょう。これもことばを尽くして「こちらから」証明しなければならないのでしょうか。
 どこかで読んで印象に残っているのですが、金子大栄氏は若い頃、弥陀の本願が真理であることを証明しなければならないと真剣に考えたそうです。それが自分に与えられた使命だと感じた。ところが、何とかして証明しようと模索している過程で、ふと思った、これは話が逆さまだと。自分が弥陀の本願の存在を証明するのではなく、弥陀の本願が自分の存在を証明してくれるのだと。弥陀の本願は「こちらからゲットする真理」ではなく「むこうからゲットされる真理」ですから、「こちらから」証明できることではなく、「むこうから」(「おのづから」)証明されるのです。
 しかし「むこうから」(「おのづから」)証明されるとはどういうことか。それを明らかにするのが「よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」という一文です。本願に遇ったそのとき、「しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつ」ということ、すでに功徳の大宝海に入っていたということですが、これこそ本願が真理であることの何よりの証明です。これは「こちらから」証明したのではありません、気がついたら「むこうから」証明されていたのです。
 本願に遇うと、これまでの人生とはまったく違う人生が目の前に開ける、これによって本願が真理であることが証明されているのです。

タグ:親鸞を読む
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