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2月3日(日) [はじめての親鸞(その38)]

 森岡氏の思索がその後どう展開していったのか興味あるところですが、この辺で彼から離れてぼく自身の煩悩論に戻らなければなりません。
 これまで「わが子は五体満足であってほしい」と願うことを煩悩と考えてきましたが、それがどうして煩悩なのかという疑問が出されるかもしれません。そう願うのは人間として当たり前ではないかと。しかし「わが子は五体満足であってほしい」と願うことは、目の前の障害者を「あなたは生まれてくるべきじゃなかった」という眼で見ることにつながらないでしょうか。「そんな意識はありません、わたしはただわが子のことを願っているだけです」と言っても、現に障害者から「自分の存在が否定されているように感じる」と指摘されたら…。それでもなお「どうしてそう願うのがいけないのか」と言い張るのは開き直りと言わざるをえません。
 念のために申し添えますが、「わが子は五体満足であってほしい」と願うのと、「そう願うのは当然だ」と思うことは別のことです。「わが子は五体満足であってほしい」と願いながら、それに後ろめたさを感じることがあるからです。そして、そのことに後ろめたさを感じるのは、「これは煩悩だ」と思うことに他なりません。つまり煩悩には、かすかでもこれは煩悩だという自覚が伴っているのです。「わが子は五体満足であってほしい」と願いながら、「これは煩悩だ」と感じて後ろめたさを覚える。こうしてはじめて煩悩が姿を現します。「そう願うのは当たり前じゃないか」と思っている人には煩悩なんてどこにも存在しません。

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