SSブログ
『教行信証』精読2(その55) ブログトップ

念仏は往生のための行? [『教行信証』精読2(その55)]

(2)念仏は往生のための行?

 源信が言うのは、往生の行として念仏を勧めるからといって「余の種々の妙行を遮する」のではないということ、ではどうして念仏を勧めるかと言うと「男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず」であり、とりわけ臨終において「その便宜を得たるは念仏に」まさるものがないからだということです。往生できるかどうかの瀬戸際である臨終において、間違いなく修めることができる行として念仏にまさるものはないということです。源信にとって念仏とは「来生の往生のためにわれらが修すべき行」であることが明白です。
 源信はその証拠として経論にもとづき十の文を上げているのですが、ここではその二つ目から四つ目までの三文が引かれています。二つ目の文と三つ目の文は大経、四つ目は観経にもとづいていますが、このようにそれぞれの経典から念仏に絞って関係する部分を拾い出そうとすると、意外に少ないことに気づかされます。源信は大経から三輩段と第18願を、そして観経から下下品を上げています(観経からはさらに二つの文が取り上げられますが、それらは念仏には直接関係しません)。因みに、大経で念仏に関わるところとしては、さらに第18願成就文、そして末尾の弥勒付属文を上げることができますが、それにしてもわずかであると言わなければなりません。
 浄土の教えは念仏の教えであるはずなのに、それが依拠する経典において念仏に言及される箇所が意外に少ないということは改めて考えてみなければなりません。
 ここでは大経の四十八願に絞り、どうしてそういうことになるかに思いをはせたいと思います。源信は第18願について「念仏門において、別してひとつの願をおこし」と特別扱いし、その願を「乃至十念せん、もし生ぜずば正覚をとらじ」と「乃至十念」に注目して要約しています。たしかに第18願の兄弟願と言うべき第19願、第20願にも「わが国に生まれんと欲わん」とあっても念仏に相当するような文言は登場しませんから、その意味で第18願を別願とするのも頷けます。四十八願のなかに念仏にあたることばが出てくるのは、ただ第18願だけであるということ(第17願に「わが名を称する」とありますが、これは諸仏について言っていますので除きます)、これは何を意味するのでしょう。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読2(その55) ブログトップ