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11月3日(水) [矛盾について(その98)]

 またもや「見る」と「感じる」の違いです。
「それは何か」を「見る」ときは、どこまで行っても疑いがつきまといますが、何かをシカと「感じた」ときは、疑いの起こる余地はありません。何かを「見る」とき、ベクトルは「自分から何かへ」伸びますが、その先が何かをピタリと射止めたとは思えません。しかし何かを「感じる」ときは、「何かから自分へ」のベクトルは、なるほどその来し方は霧の中だとしても、その先はズシンと自分に突き刺さっているからです。「こちらから」何かに追いつこうとしますと、限りなく接近することができるだけで、どこまでも隙間が残りますが、「向こうから」何かに追いつかれたときは、気がついたらもう何かの手の中に包み込まれているのです。
 さてしかし、科学は「それは何か」を「見る」いとなみですから、疑いこそその原動力です。疑いを持たない人は科学者ではありません。森岡氏は「どうして人は聞こえないはずの脳死の人に語りかけるのか」という疑いをもち、「脳死の人とは何か」を追究しようとします。それは科学者として実に真っ当と言わなければなりません。科学の立場から言えば、たとえ自分があることを感じとったとしても(したがってそれには疑いがないとしても)、そこで満足することなく、「それは何か」という問いを立てなければなりません。でなければ、それはただの主観であって、科学ではありません。
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