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『中論』という書物 [『ふりむけば他力』(その92)]

            第8章 去るものは去らない

(1)『中論』という書物

 前章で仏教における因果(すなわち縁起)は近代科学の因果(日常世界の原因・結果)とまったく別のものであることを見てきました。近代科学の因果について徹底して考えたのがヒュームでしたが、仏教における因果すなわち縁起の法を「空」ということばで徹底的に考え抜いた人がナーガールジュナというインド人で、中国では龍樹という名でよばれます。彼は2世紀の南インドにバラモンとして生まれ、出家して小乗仏教を学びましたが、後に北インドに移って大乗の般若経典に開眼し、空の思想を大成した天才的な仏教哲学者です。日本では八宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳・律・天台・真言)の祖として敬われ、親鸞も彼を浄土教の七高僧の筆頭に選んでいます。
 龍樹の主著と言えば、何と言っても『中論』でしょう。『大智度論』や『十住毘婆沙論』といった他の著作に比べますと小著ですが、そこに空の思想が凝縮されています。ところがこの書物、ちょっとやそっとでは歯がたちません。ぼくは若いころから何度も挑戦してみましたが、その都度、途中で投げ出してしまうということをくり返してきました。龍樹の言っていること自体が理解不能なのか、それとも訳が悪くて意味が通じないのか、とにかく「何を言いたいんだ!」とさじを投げてしまうのです。しかし不思議なもので、「読書百篇、意おのずから通ず」ではありませんが、この年になって彼の言わんとするところがほのかに見えてきた気がします。
 この書物を読むときにキーとなるのが「戯論(けろん)」ということばでしょう。この書は明らかに論争の書で、相手の論を戯論、すなわち形而上学的な戯れの議論として退けているのです。中村元氏の解説によりますと(『龍樹』、講談社学術文庫)、論争の相手は部派仏教のなかで最有力であった「説一切有部」の人であるとのことですが、当時の有力な仏教学説を戯論として一蹴しているのです。それが戯論である所以は、ことばの構造に幻惑されて、ことば上の約束事(ヴィドゲンシュタインの用語を借りますと「言語ゲーム」のルール)にすぎないことを実際の世界のありようであると見誤っているところにあると思われます。
 ともあれ『中論』の世界に入っていきましょう。

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