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『歎異抄』を読む(その128) ブログトップ

9月21日(金) [『歎異抄』を読む(その128)]

 学問とは何か、という問題です。ぼくらはいま親鸞から他力とは何かを学ぼうとしています。そのために『歎異抄』をひもといて、そのひと言ひと言が何を言わんとしているのかを考えているのです。これも学問でしょう。しかし何故学問なんか必要なのか。「一文不通にして経釋のゆくぢもしらざらんひと」は学問をしたくともできないが、そういう人は救われないのでしょうか。
 本願を信じ念仏すれば仏になる、これ以外に何の学問が必要でしょうかと唯円は言います。第2章では、「ただ念仏して弥陀にたすけていただくと信じるだけ」とありました。「ただ念仏して」ということばは何と有難いでしょう。もし「経典を読んでしっかり理解しなければたすけてもらえませんよ」などと言われたら、難しい漢字が並んでいる経典を前に途方に暮れてしまいます。
 小さい頃、母からだったでしょうか、こんな話を聞いて今も印象深く耳の底に残っています。近所に住むお婆さんのことですが、道を歩いていて柄杓で打ち水をしている人にうっかり水をかけられたそうです。その時、お婆さんの口から驚くべきことばが出たと言います、「あゝ有難い。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と。
 このような人を妙好人と言うのでしょう。「もうすでに救われている」という喜びの中にいれば、水をかけられようが、何をされようが「あゝ有難い」のです。そのような人には「ただ念仏して」でもう十分です。その他に何もいりません。
 しかし、ぼくだったらムッとして相手をにらむのではないかと思います。「気をつけろ」と怒鳴りつけるかもしれません。怒り虫がモゾモゾ這い出してくるのです。ぼくは到底妙好人にはなれそうにありません。そんなぼくには『歎異抄』が必要です。改めて「そのままで救われている」ということを聞かせてもらわねばならないのです。

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