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否定的にしか語れない [はじめての『尊号真像銘文』(その27)]

(4)否定的にしか語れない

 浄土経典を読んでいまして、極楽浄土の描写ほど退屈するところはありません。まったくリアリティを感じられないのですが、それはただ娑婆のありようを否定的にひっくりかえして言うことしかできないからです。それに比して娑婆世界の描写は非常に具体的で読む者の身に迫ってきます。たとえば『無量寿経』の「三毒・五悪段」。あるいは『観無量寿経』の「王舎城の悲劇」のくだり。どうして身に迫ってくるかといいますと、われらは現に娑婆世界で我執を生きているからです。われら自身が我執を生きていることが突き付けられ、胸に沁みるのです。
 本願招喚の勅命に遇うことができ、「あゝ、これは我執だ」と気づかせてもらえても、依然として我執を生きているのが現実です。だからこそ浄土経典に描かれる娑婆世界のありように胸を突かれるのです。聖徳太子のことばとして「世間虚仮、唯仏是真」がよく知られていますが、虚仮である世間のありようは具体的にリアリティをもって語れるのに、真であるはずの仏の世界(安養浄土)については「こうでもない、ああでもない」と否定的にしか言えないのは何とも皮肉なことです。それは、「これは我執だ」と気づいたとしても、その我執の世界から離脱できないからに他なりません。
 夢から覚めて現実に戻るように、我執のマインド・コントロールから覚めてまったく別の世界(安養浄土)に入ってしまうのでしたら、その世界のありようを具体的・肯定的に語れるのでしょうが、依然として我執の娑婆世界にいるのですから、「これは虚仮の世界だ」とは言えても、では真実とは何かについては「こうでもない、ああでもない」としか言えないのです。考えてみますと龍樹は八不(不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不来、不去)を言い、釈迦も無常とか無我、あるいは空といった否定的な言い方しかしませんでした。縁起はどうかと言われるかもしれませんが、これも「有でもなく、無でもない」と言っているにすぎません(生起しているから無ではないが、しかし変化してやまないから有でもない、つまり何ごとも他との関係になかにしかない、ということです)。
 真理は否定的にしか語れないのです。

タグ:親鸞を読む
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