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生かされる [「親鸞とともに」その102]

(5)生かされる

「わたしのいのち」を「わたしの意思」で生きることが自由であることは間違いありませんが、その「わたしの意思」が「欲望への意思」に乗っ取られてしまいますと、欲望の奴隷と化し、そこには自由がないと言わなければなりません。ここで、冒頭の問題、「生かされて生きる」のは自由の反対ではないかということに立ち返りたいと思います。「わたしの意思」のままに生きるのが自由ということですから、「生かされて生きる」というのは、何かに束縛されていることではないかという疑問ですが、この「わたしの意思」のままにということが、実は「欲望への意思」のままにということになっているとしますと、それは欲望への隷従であることを見てきました。

そこで提起したいのが「生かされて生きる」ことこそ、真の意味で自由に生きることではないかということです。

「生かされる」とは「如来のはからい」に生かされるということですが、これが束縛されることのように感じられるのは、「生かされる」という受身の言い回しにその一因があるのは間違いないでしょう。何かを「される」というのは、こちらの思いなど関係なく、有無を言わさず、あることが自分の身に及ぼされるというニュアンスですから、これはもう自由とは真反対であると感じられるのです。さてその場合、あるはたらきを自分に及ぼしてくるものは自分とは別の存在とみなされています。いまはそれが如来ですが、如来とはわれらとはまったく別の存在であり、その如来の力がわれらに及んで「生かされている」と感じられています。

そこで考えたいのが如来とは何か、如来とわれらとはどのような関係にあるのかということです。これまでも述べてきましたが、あらためて考えておきましょう。浄土の教えで如来と言えば阿弥陀如来ですが、この「阿弥陀」ということばのもとは梵語の「アミターユス(amita()yus)」で、「無量のいのち」という意味です(もう一つの意味が「アミターバ(amita()bha)」すなわち「無量のひかり」です)。阿弥陀如来とは「無量のいのち」ということから、われら個々の「有量のいのち」を超絶した「大いなるいのち」とイメージされます。


タグ:親鸞を読む
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