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必至滅度の願 [『教行信証』精読2(その151)]

(12)必至滅度の願

 光明と名号とにより法蔵の誓願に気づいたとき、何が起こるか。それについて最後の二句、「等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願成就なり」が述べます。まず「等覚を成る」ということ、そして「大涅槃を証する」ということ、これが法蔵の誓願に気づくことによって開ける世界です。「等覚を成る」というのは、等正覚となるということ、仏の正覚にひとしい境地に至るということで、「大涅槃を証する」というのは、文字通り仏となるということですから、まず等覚となり、次いで大涅槃をえるという順序になります。
 念のため、第11願、いわゆる必至滅度の願を上げておきますと、大経では「たとひわれ仏をえたらんに、くにのうちの人天、定聚に住し、かならず滅度にいたらずば正覚をとらじ」とあり、如来会では「もしわれ成仏せんに、くにのうちの有情、もし決定して等正覚となり、大涅槃を証せずば菩提をとらじ」となっています。正信偈は如来会に拠っていますが、大経と如来会を重ね合わせますと、等正覚と定聚(正定聚)、大涅槃と滅度が同じであることが分かります。
 さて大経で「かならず滅度にいたらずば」といわれていますことから(言うまでもなく、必至滅度の願という名はここからつけられています)、滅度は未来に期されていることは明らかです。未来にかならず仏となると約束されているのですが、正定聚とはまさしく「かならず仏となることが決まったもの」ということですから、「定聚に住し」と「かならず滅度にいたる」とはまったく同じことを意味しています。問題は「定聚に住」するのがいつかということです。
 願文には「くにのうちの人天(有情)、定聚に住し(等正覚となり)」とありますから、浄土に往生して正定聚となると理解できますが、では浄土に往生するのはいつのことか。もしそれが伝統的に考えられてきたように、いのち終わったあとのことだとしますと、正定聚となるのもいのち終わったあとになりますが、これまで繰り返し述べてきましたように、親鸞はこの浄土教の伝統を覆したのでした。正定聚となるのは、信心をえたそのときであり、したがって往生もまた信心のときであるとするのです。

タグ:親鸞を読む
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