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釈迦は要門ひらきつつ [親鸞の和讃に親しむ(その64)]

(4)釈迦は要門ひらきつつ(これより善導讃)

釈迦は要門ひらきつつ 定散(じょうさん)諸機をこしらへて(みちびいて) 正雑二行(しょうぞうにぎょう、正行と雑行)方便し ひとへに専修をすすめしむ(第65首)

釈迦は浄土の門ひらき、定散諸機をすすめては、正雑二行用意して、ついに専修に誘いこむ

この和讃にはことばの説明が必要です。まず要門ですが、善導はその『観経疏』で「要門」と「弘願」を分け、「その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり」と言い、「弘願といふは『大経』の説のごとし」とします。そして定散については「定はすなはち慮(おもんぱか)りをやめてもつて心を凝らす。散はすなはち悪を廃してもつて善を修す」と言います。親鸞はこれを受けて、要門とは第19願の定散の自力諸行によって往生を得ようとすることであり、弘願は第18願の他力信心のこととします。次に正雑二行ですが、往生の行として読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五つを正行、それ以外を雑行とし、さらに正行の中の称名を正定業、それ以外の四つを助業とします。ここで専修といわれるのは「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざる」ことを指します。

さてここで考えなければならないのは、どうして弘願(第18願)だけでなく要門(第19願)があるかということ、なぜ正定業だけでなく正雑二行を方便しなければならないかということです。結論をひとことで言いますと、弘願を受け入れ、弥陀の名号を「念々に捨てざる」ようになるには時が熟さなければならないということです。これまで繰り返し本願を信じるというのは本願に気づくことに他ならず、それは「わがちから」によるのではなく、あくまでも本願力のはたらきであると述べてきました。さてしかしこのように本願力がわが身にはたらき、本願に気づくようになるには、それにふさわしい身に育っていなければなりません。第35首(曇鸞讃)に「弥陀の方便ときいたり 悲願の信行えしむれば」とありましたように、「悲願の信行えしむる」には、その「とき」が至らなければならないのです。

誤解のないよう言っておかなければならないのは、その「とき」を自分で引き寄せることは金輪際できないということです。それはあくまでも「弥陀の方便」であり、われらとしてはその「とき」が至って、はじめてそのことに気づくのです。


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