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願心と浄土はひとつ [『教行信証』「信巻」を読む(その140)]

(11)願心と浄土はひとつ

一つ目の文が言うのは、法蔵の願心が因となり、浄土という果があるということですが(「正信偈」に「報土の因果、誓願に顕す」とあります)、いつものことながら因果ということばが出てきたときには注意が必要です。われらは因果を普通の原因・結果と理解してしまうということです。この場合も、法蔵の願心が原因となって浄土という結果を生みだしたと考えてしまいますと、法蔵の願心と浄土は別ものとして切り離されてしまいます。そして時間的に法蔵の願心が前で浄土が後となり、それは不可逆であるとされます。しかし仏教の因果(縁起)においては、因と果はひとつにつながっていて、因のなかに果があると同時に、果のなかに因があるという関係です(「これあるに縁りてかれあり」であると同時に「かれあるに縁りてこれあり」です)。いまの場合、法蔵の願心のなかに浄土があり、浄土のなかに法蔵の願心があるということです。

ここから出てきますのは、浄土は法蔵の願心から独立して、どこかに(西方十万億土の彼方に)ある世界ではなく、願心のあらわれとして「いまここ」に現出している世界であるということです。こう言うべきでしょうか、願心を通してこの世界を見たとき、そこに現出する世界が浄土であると。さらにはこうも言えます、法蔵の願心のあるところ、そこが浄土であると。法蔵の願心が名号の「こえ」としてわれらにやってきてわれらの欲生心となりますと、その欲生心のあるところ、そこが浄土です。「身土一如」ということばがありますが(仏身と仏土はひとつということです)、同様に「心土一如」と言うこともできます。仏心(願心)と仏土(浄土)はひとつであるということです。

願心(欲生心)のあるところ、そこが浄土ですが、同時に我執(煩悩)のあるところ、そこが娑婆です。世界はただひとつですが、その世界を願心を通して見ますと、そこに浄土が現出し、我執を通して見ますと、そこに娑婆が現出します。ときどき「誰でもいいから殺したい」と言う人が現われ驚くべき狼藉をはたらきますが、その人の瞋恚の心を通して目の前に現出しているのが「我慢ならない世界」です。瞋恚の心が「我慢ならない世界」をつくり出しているのです。願心の世界(浄土)と我執の世界(娑婆)は別々にあるのではありません、ひとつの世界が浄土であり、同時に娑婆です。


タグ:親鸞を読む
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