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うそもほんとうもない [『ふりむけば他力』(その104)]

(13)うそもほんとうもない

 そもそも「われはない」ことを「知る」ということほど理不尽なことがあるでしょうか。「知る」のは「われ」でしかありませんが、「われ」が「われはない」ことをどのようにして「知る」ことができるのでしょう。それは自分の影を自分で踏もうとするようなものです。かくして「われはない」ことは外から「気づかせてもらう」しかないということになりますが、さてそのように外から「気づかせてもらう」となりますと、われらに気づきをもたらす何らかの力について語らざるをえなくなり、そのとき物語の出番がやってきます。
 もし気づきをもたらす力をニュートンの万有引力の場合のように事実として語ることができるのでしたら、それは誰にでも「知る」ことができるものでなければなりませんが(事実として語るとはそういうことです)、「われはない」ことは「知る」ことができず、「気づかせてもらう」しかないことを言おうとしているのに、その気づきをもたらす力を「知る」ことができるとしますと、結局のところ「われはない」ことは「知る」ことができると言っていることになります。こんなふうに考えてきますと、「気づかせてもらう」ことについては事実として語ることはできず、物語というかたちをとらざるをえないという結論になります。
 ここで是非とも考えておきたいのは、事実は「ほんとう」で、物語は「うそ」であるという思い込みについてです。本願の教えは事実ではなく物語であると言いますと、それを貶めているかのように思われるのが普通ですが、事実(fact)か物語(fiction)かという違いと、それが「ほんとう(true)」か「うそ(false)」かという違いは、まったく位相を異にします。「事実か物語か」は「真実か虚偽か」とは次元が違うということです。事実を語るとき、そこに虚偽が入るのはザラですし、また物語でしか語ることのできない真実があるのもまた確かです。
 あらためて思い起こしたいのは、われらはみな否応なく「わたしという物語」を生きているということです。この物語に「うそ」も「ほんとう」もないのは、われらが直立二足歩行していることに「うそ」も「ほんとう」もないのと同じことです。われらがあるときどういうわけか直立二足歩行という生活様式をとったように、われらはあるときどういうわけか「わたしという物語」を生きるようになったのであり、そのことに「うそ」も「ほんとう」もありません。
 「事実と物語」、そして「ほんとうとうそ」について、章をあらためて考えつづけたいと思います。

                (第8章 完)

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