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「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」 [『歎異抄』ふたたび(その89)]

(10)「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」


これまで、死の怖れの正体が煩悩すなわち「われへの囚われ」であると気づくことで、死の怖れが緩和されることを見てきました。そのことがここでは「いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ」と言われています。「いそぎまゐりたきこころなき」とは「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」ということですが、そのようなもののために弥陀の本願はあるのだから、それに気づきさえすれば、もう何の心配もいらないというのです。


「己のなかの煩悩に気づくことで煩悩によるさまざまな苦しみが和らぐ」ということを、より分かりやすく、「弥陀の本願は煩悩に苦しむ凡夫を救うためにある」と説くのです。煩悩に苦しむ一切衆生に「そのままのおまえを救おう」と呼びかけるのが弥陀の本願であり、だからその本願に気づきさえすれば、もうそのままで救われているのだと。煩悩に気づくことで煩悩による苦しみが和らぐと言われても、なかなかピンとくるものではありません。しかし煩悩に気づくというのは本願に気づくことに他ならないと言われますと、そうか、本願のおかげで煩悩のまま救われるのだ、と腑に落ちるのです。


煩悩の根っ子に「われへの囚われ」があると言ってきましたが、これを「わたしのいのちへの囚われ」と言い換えても同じです。われらは「これはわたしのいのちである」という思いに囚われ、それがゆえに「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」のですが、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに気づきますと、死ぬとは「わたしのいのち」がなくなることですが、それは「ほとけのいのち」へと帰っていくことに他ならないと思うことができるようになり、死の怖れが和らぎます。


「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに気づかせてくれるのが本願です。


 


(第9回 完)



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