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善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや [『歎異抄』ふたたび(その34)]

              第4回 悪人正機

(1)善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや

 第3章、有名な悪人正機の段です。

 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるに世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦(一応は)そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

 『歎異抄』の中でもっとも有名な「悪人正機」が説かれています。いや『歎異抄』のみならず、親鸞と言えばこの「悪人正機」が真っ先に上げられるほどよく知られています。しかし増谷文雄氏は、前半の「故親鸞聖人の御物語」の中で、この第3章と第10章だけが「仰せ候ひき」で終わり、それ以外はすべて「云々」で閉じられていることに注目し、この「仰せ候ひき」の主語は親鸞ではなく法然であると指摘されました。つまり、この二つの章以外はみな親鸞自身のことばですが、この二つの章は法然上人からこのように聞いたと述べているのだということです。
 増谷氏は法然が実際に「悪人正機」を語っていたことを典拠をそろえて示されており、おそらく氏の言われるように、親鸞は法然からこれを聞いて印象深くこころに留め、折に触れて弟子たちにそれを紹介しながら、その意味することを語っていたのだろうと思います。ですからこれは親鸞のオリジナルではないと言わなければなりませんが、ただ親鸞としては「よき人の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(第2章)ですから、自分の言うことはみな本をたどれば法然聖人からお聞きしたことだという思いでしょう。法然聖人のことばが親鸞の身体を通って消化され、親鸞のことばとして彼の口から出てきたということであり、そこから「法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」(同)となるわけです。

タグ:親鸞を読む
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