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至心回向 [「親鸞とともに」その82]

(6)至心回向

「至心に回向する」のは誰かという問題です。回向とは「めぐらしさしむける」という意味で、自分のもてる功徳を自他に「めぐらしさしむける」ということですが、もし「われら」が回向するのだとしますと、どうして浄土に往生したいと願えば、そのとき直ちに(即)往生することができるのか、その根拠が明らかではありません。この「そのとき直ちに往生する(即得往生)」ことについて、親鸞はこう解説します、「信心をうればすなはち往生すといふ。すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ。不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり。これを即得往生とは申すなり。即はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、日をへだてぬをいふなり」(『唯信鈔文意』)と。

信心をえて願生すれば「ときをへず、日をへだてず」に往生できるというのですが、そんなことができるのは、そこに「如来の回向」があるとしか考えられません。如来がそう願い、はからってくださっているからこそ、「信心をうればすなはち往生す」ることができるのです。したがって、漢文の読みとしては不自然でも、ここは「(如来が)至心に回向したまへり」としか読めないのです。親鸞の最晩年の文に「自然法(じねんほう)()章」とよばれるものがあり、そこにはこうあります、「自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。然といふは、死からしむといふことばなり。しからしむといふは。行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。法爾といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり」と。

引用が多くなりましたが、行者のはからい(われらの回向)によるのではなく、如来のはからい(如来の回向)があるからこそ、本願の信がえられたそのときに、自然法爾に往生することができるのであることが明らかになったのではないでしょうか。さてこのように信心がひらけたそのときに往生するのだとしますと、おのずから往生の持つイメージが大きく改変されることになります。先ほど言いましたように、伝統的に往生は臨終のときと考えられてきましたが、その往生観とはおよそ異なる往生観が出現してきます。それが親鸞の現生正定聚です。


タグ:親鸞を読む
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