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11月25日(木) [矛盾について(その119)]

 「わたし」と「あなた」。
 太郎と次郎とは相互にコミュニケーションを取れます。太郎は次郎に「おい、次郎」と呼びかけることができますし、次郎も太郎に「おい、太郎」と声をかけることができます。当たり前のことです。ところが「わたし」と「あなた」の間には相互性がありません。「わたし」は「あなた」に呼びかけることはできず、「あなた」から「わたし」に声が届けられるだけです。太郎にとって次郎が「あなた」となったとき、つまり太郎に「そのまま生きていていい」の声が次郎から届いたとき、太郎は「あなた」に呼びかけることはできません。もちろん次郎に声をかけることはできます、「おい、次郎、“そのまま生きていていい”と言ったのはお前か」と。でも返ってくる答えは「いや、そんなことを言った覚えはない」というものでしょう。
 太郎にとって次郎は「見る」ことができますが、「あなた」を「見る」ことはできません、ただ「聞こえる」だけです。金子みすずの詩に「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」の一節がありますが(「星とたんぽぽ」)、詩の中の「昼の星」、「たんぽぽの根」のように、何かの事情で見えないのではなく、原理的に見えないもの、ただ聞こえるだけのもの、それが「あなた」です。何かを「見る」とは、それを「捉える」ことです。敵艦を裸眼でか双眼鏡でかレーダーでかはともかく「見る」ことができたとき、「捕捉した」と言います。眼でつかまえたということです。残念ながら「あなた」を眼でつかまえることはできません。逆に「あなた」がぼくらをつかまえるのです。ぼくらはただ「あなた」の声をほれぼれと聞くだけです。
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