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慚愧ということ [『歎異抄』ふたたび(その42)]

(9)慚愧ということ

 さて、「われへの囚われ」に気づくことによる決定的な違いの二つ目は、慚愧の念です。「われ」を何の根拠もなくすべての起点として最上位に置き、そしてさまざまなものを「わがもの」と思い込み執着していることを目の当たりにして、「お恥ずかしい」という思いが起こります。そしてそこから、このお恥ずかしい姿を少しでも変えていかねばという思いが生まれてきます。そう思ったからといって、「われへの囚われ」がなくなるわけではありませんから、またぞろ「わがもの」に囚われては、それに苦しめられることになりますが、その都度「いかん、いかん」と慚愧をくり返す。これが「われへの囚われ」に目覚めてからの新しい生き方ではないでしょうか。
 ここから四諦説の四つ目の真理、道諦について語ることができます。道諦とは「涅槃に至るための道が八正道である」というもので、八つの正しい道とは正見・正思(正しい思考)・正語・正業・正命(正しい生活)・正精進・正念(正しい憶念)・正定(正しい禅定)とされます。さて滅諦を「煩悩を滅することにより涅槃に至る」と理解しますと、この道諦は「煩悩を滅する正しい方法が八正道である」となり、しばしばそのように受け取られています。しかし、先に検討しましたように、滅諦とは「煩悩が苦しみの元であると気づくことで涅槃への道に立つことができる」ということですから、おのずから道諦の理解も変わってきます。すなわち八正道は煩悩を滅するための方法ではなく、「われへの囚われ」に目覚めてのちに開ける新しい生き方を指すものということができます。
 煩悩を滅するために八正道を歩むのではなく、煩悩に気づいて慚愧の念が起こったときに八正道が目の前に開けてくるということです。悪人の気づきがあるからこそ、これからは八正道を歩もうという思いがこみ上げてくるのです。ここから第1章にありました「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」という文言について、より正確な理解を得ることができます。これは一見したところ本願念仏はもう善悪を超越していると言っているように思えるところから、「造悪無碍」などという歪んだ見方が生まれてくるのです。

タグ:親鸞を読む
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