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本師道綽禅師は [親鸞の和讃に親しむ(その61)]

第7回 高僧和讃(3)

(1)本師道綽禅師は(これより道綽讃)

本師道綽禅師は 聖道万行さしおきて 唯有浄土一門を 通入すべき道ととく(第55首)

本師道綽禅師は、聖道門をさしおいて、ただ浄土の一門を、通れる道とさだめたり

道綽の『安楽集』に「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて(唯有浄土一門)、通入すべき路なり」とあるのを元にして詠われています。これまで龍樹が「難行道と易行道」、曇鸞が「自力と他力」という対立軸を打ち出したのを受けて、道綽は「聖道門と浄土門」というコントラストを持ち出します。このコントラストの背景に末法という歴史観があることは、「当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり」ということばにもはっきりとあらわれています。ここで浄土の教えと末法思想との間にどのようなつながりがあるのかを考えておきたいと思います。

浄土と穢土(あるいは娑婆)は対となりますから、浄土ということばが出てくれば、その裏に穢土が意識されているはずです。ところが意外なことに、浄土三部経に穢土ということばは一度も出てきません。阿弥陀仏の国土は浄土だけではなく安楽や極楽あるいは安養とさまざまによばれる一方で、穢土ということばはまったく姿をあらわしません(娑婆は娑婆国土として『小経』に一度だけ登場します)。穢土や娑婆ということばがよくつかわれるようになるのは道綽そして善導からです(道綽は穢土を、善導は娑婆を好んでつかいます)。これは何を意味するのか。

道綽、善導は6世紀から7世紀の人ですが、この時期に穢土という世界意識が生まれてきたということです(穢土とは、どこかに穢土なるものが存在しているのではなく、この世界を「自他相剋の穢土」と意識することです)。それを時間のなかに引き写したものが末法思想という歴史意識に他なりません。そして「自他相剋の穢土」という世界意識があるところ、同時に「自他一如の浄土」という世界意識があります。それは、先に曇鸞のところで見ましたように、煩悩の気づきのあるところ、かならず菩提の気づきがあるのと同じことです。かくして浄土の教えと末法思想は切り離しがたく結びついていることが了解できます。


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