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名号不思議の海水は [親鸞の和讃に親しむ(その56)]

(6)名号不思議の海水は

名号不思議の海水は 逆謗(ぎゃくほう、五逆と誹謗正法)の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり(第41首)

不思議なるかな海の水、どんな屍骸もとどめない。あらゆる川を受け入れて、功徳の水に同化する

本願名号の海はあらゆるものを受け入れ、どんな悪も飲み込んでひとつにする不思議なはたらきがあることが詠われます。正信偈に「凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」とあるのと同趣旨です。「法の下の平等」ということばがありますが、これは平等と言いながら、各人に差別があることが前提されています。ひとり一人その能力においても、貧富においても、地位においてもそれぞれ差別があることは当然とした上で、法はそうした違いにかかわらず、みんな平等に扱い、一切差別しないということです。本願の海も同じです。衆水(万川)はみな違っていて、濁った水もあるし、清らかな水もありますが、本願の海に入ってしまえば、そんな違いはまったく問題とならず、みな同じ味わい(一味)になります。本願の海に入ったからといって、これまでの違いが消えてしまうわけではありませんが、そんな違いに関係なくみな同じ安心(あんじん)が与えられるということです。

本願の海に入るということは、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」となるということです。そのとき「わたしのいのち」としては千差万別ですが、その千差万別の「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」としてはひとつになるのです。そして「ほとけのいのち」としてひとつであれば、「わたしのいのち」としてどれほど差別があろうが、そんなことはもう気にならず、かけがえのない「わたしのいのち」としていとおしくなります。その反対に、「わたしのいのち」がただひたすら「わたしのいのち」でしかありませんと、他人との違いしか目に入らなくなります。そして他人より上だと思えば、鼻持ちならない優越感を抱き、他人より下だと見れば、どうして自分はこうも見劣りするのかと、かけがえのない「わたしのいのち」をいじめることになるのです。


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