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涅槃に入るか、涅槃に入らずか [「信巻を読む(2)」その131]

(8)涅槃に入るか、涅槃に入らずか

阿闍世は、自分のような五逆の罪びとに釈迦は会ってくださるだろうかと不安に思うのですが、ついに釈迦に会うことができ、無根の信を得ることになります。

善男子、われこの事を知らんと。阿難に告げたまはく、〈三月を過ぎをはりて、われまさに涅槃すべきがゆゑに〉と。善見聞きをはりて、すなはちわが所に来れり。われために法を説きて、重罪をして薄きことを得しめき、無根の信を獲しむ。

善男子、わがもろもろの弟子、この説(釈迦が「三月を過ぎをはりて、われまさに涅槃すべき」と説いたこと)を聞きをはりて、わが意(こころ)を解(さと)らざるがゆゑに、この言をなさく、〈如来さだめて畢竟(ひっきょう、ついに)涅槃を説きたまへり〉と。善男子、菩薩に二種あり。一つには実義(真実の意味の菩薩)、二つには仮名(けみょう、名前だけの菩薩)なり。仮名の菩薩、われ三月あつてまさに涅槃に入るべしと聞きて、みな退心(心が挫ける)を生じてこの言をなさく、〈もしそれ如来、無常にして住したまはずは、われらいかがせん。この事のためのゆゑに、無量世のうちに大苦悩を受けき(これまでずっと大きな苦しみを受けてきました)。如来世尊は無量の功徳を成就し具足したまひて、なほ壊(え)することあたはず。かくのごとき死魔をや。いはんやわれらが輩(ともがら)、まさによく壊すべけんや〉と。善男子、このゆゑに、われかくのごときの菩薩のためにして、この言をなさく、〈如来は常住にして変易あることなし〉と。わがもろもろの弟子、この説を聞きをはりて、わが意を解らざれば、さだめていはく、〈如来はつひに畢竟じて涅槃に入りたまはず〉」と。以上抄出

ここで話題となっていますのは、前に釈迦が弟子たちに、われは「阿闍世王の為に涅槃に入らず」と言ったにもかかわらず、ここにきて「三月を過ぎをはりて、われまさに涅槃すべき」と言うものですから、その真意を理解できない弟子たち(仮名の弟子たち)は、如来は涅槃に入るのだろうか、それとも如来は常住であり涅槃に入ることはないのだろうかと戸惑うということです。さて釈迦の真意はどこにあるのでしょう。


タグ:親鸞を読む
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