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名号と信心 [「『正信偈』ふたたび」その113]

(6)名号と信心

行と信はひとつであるということについて、もう少し考えておきましょう。すぐ前のところで称名(専修念仏)を選ぶのはわれらではなく、如来であると述べましたが(4)、それは行と信はひとつであることと直結しています。

「いのち、みな生きらるべし」という阿弥陀仏の「ねがい」を一切の衆生に届けるために阿弥陀仏に選ばれたのが名号の「こえ」であると言いましたが、そのことが第十七願においてこう言われています、「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめたたえる)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」と。すなわちあらゆる世界の無量の諸仏が阿弥陀仏の名号を称える(たたえる、とともに、となえる)ことが本願を一切衆生のもとへ届けるための方法として選ばれたのです。無数の世界のあらゆる諸仏が「南無阿弥陀仏」と称えることにより、阿弥陀仏の本願が一切の衆生のもとに届けられることになったということです。

このように名号とは諸仏が「南無阿弥陀仏」と称える「こえ」のことですが、それがわれらに届いたときのことを第十八願の成就文はこう述べます、「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」と。すなわち諸仏の称える名号の「こえ」がわれらに聞こえたことが信心であるということです。そして名号の「こえ」が聞こえることは、弥陀の本願、「いのち、みな生きらるべし」という願いがわれらの心に届くことに他なりません。繰り返し述べますように、名号は本願をそのなかに収め、一切衆生に送り届けるための「こえ」なのです。そして本願が名号の「こえ」となってわれらに届き、それがわれらの信心となるのです。本願はわれらの信心となってわれらを救うはたらきをするということです。

かくして諸仏の称名(行)がわれらの信心(信)となるのですから、行と信はひとつと言わなければなりません。そしてわれらの称名はと言いますと、本願が名号の「こえ」となってわれらに届いた慶びがまた名号の「こえ」となってわれらの口をついて出ることです。名号の「こえ」がやってきてわれらの信心となり、その信心がまた名号の「こえ」となって出ていくのです。その名号の「こえ」は他の誰かの心に届いて、その人の信心となることでしょう。こんなふうに本願名号は人から人へとリレーされていくことになります。


タグ:親鸞を読む
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