SSブログ
「信巻を読む(2)」その53 ブログトップ

智慧あきらかに達し [「信巻を読む(2)」その53]

(7)智慧あきらかに達し

さらに真の仏弟子の功徳が経典から上げられます。

また、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友(しんぬ)なり」とのたまへり。

またのたまはく、「それ至心ありて安楽国に生ぜんと願ずれば、智慧あきらかに達し、功徳殊勝なることを得べし」と。

また、「広大勝解者」とのたまへり。

また、「かくのごときらの類、大威徳のひと、よく広大異門(浄土のこと)に生る」とのたまへり。

またのたまはく、「もし念仏するひとは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華(プンダリーカ。白蓮華のこと)なり」と。以上

全部で五文ありますが、第一と第二は『大経』、第三と第四は『如来会』、第五は『観経』から引かれています。真の仏弟子について「わが善き親友」と言われ、「智慧あきらか」と言われ、「広大勝解者」と言われ、「大威徳のひと」と言われ、「人中の分陀利華」と言われて讃えられます。不思議な「気づき」を得るということは、何か特別な智慧を得ることに他ならず、真の仏弟子とは智慧の人であると讃えられていると言えます。さてここであらためて考えておかなければならないのは、「大いなるいのちのなかで生かされている」という智慧は、われらのなかからは生まれないということです。これを「気づき」と言ってきましたのは、そのことを表そうとしてのことで、「気づき」は「こちらから」ではなく「むこうから」やってきます。

「わが力にて」という思いが如何に強固なものか。ついこの間のことですが、こんなことがありました。親鸞講座で機の深信の話になり、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」という気づきは自分では得られないと言いましたところ、それにこんな疑問が出されました。「自身は現にこれ云々」という「こえ」は自分のなかから聞こえてくると言えるのではないでしょうか、と。罪悪生死の凡夫という気づきは自分で得ることができるのではないかという疑問です。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その53 ブログトップ